愛媛県議会議員 明比昭治 いきいき西条 元気な愛媛!! 「輝くふるさと愛媛づくり」
明けましてお芽出とう御座います。(2015/1/1)

2015年乙未の幕開けをお祝い申し上げます。
 「乙」は、ようやく草木が芽生えたものの、外はまだ寒くて、外気への抵抗のために身を折り曲げてじっと耐えているところを意味しているという。外からの圧力がいかに強くとも、改革創造の歩みを進めていかなければならない意味をもっている。
 「未」は木の枝葉が茂ったさまを表し、枝葉が増えてうっそうと暗くなると気が弱り成長が止まってしまうので、末節を払落して風通しを良くし、生き生きとした命の復活を求めるとの意味があるそうだ。
したがって「乙未」は暗いことや曖昧なことを排して物事を明らかにして、いかに外圧が強くとも屈せず、変革の歩みを進めて行かなければならない年なのだ。
 アベノミクスの正否もこの国の難題も、変革の勇気を挫折させることなく推し進め、先の光明を見出す年としたいものだ。
 先の総選挙で国民が選択した道は、安倍総理の「この道しかない」道への果敢な挑戦への支持を選択してくれたのだ。

「地方創生」を掛け声ではなく実効を生む道を、地方が責任をもって見出さなければならない。
 地方にとっては特に、中央に甘えることなく、自ら選択する自らの地域づくりの「地方創生」を図らなければならない。
これまで散々掛け声ばかりに踊り、たいしたものが残っていないのが「地方」だ。もうこれ以上活路を見いだせなければ、人口減少も進み地方衰退・消滅の負のスパイラルが加速度的に進むだろう。地方の消滅は国の屋台骨さえ崩してしまう問題でもある。

この思いに「全意全心」(一意専心よりも思いを強く)打ち込んで私は望む決意をした。
 みんなで自分のことばかり考えないで、子供や孫たちに、しっかりとした健全で平和な社会を引き継いでもらうために、今を生きる者たちの責任で力を合わせて頑張ろうではないか!

今年もよろしくお願いします。 
 
ボックス君子入るとして 自得せざる無きなり
  
       
      
月刊『致知」2015.1月号より引用  伊與田覺 ( 論語普及会学監 )
 
『直面していくことに処していくのが人生』
 何が起こるかわからないのが人生です。
私は今日まで100歳近く生きてまいりましたが、随分いろいろなことがありました。
私ほど長生きしなくとも、どなたもが日々色々な経験をされていることでしょう。
そして、それに応じて人間は常に変化していくものです。

 日本は戦前、明治維新以来の富国強兵策によって急速に国力を蓄え、三大強国の一角を占めるまでになっていました。
ところが戦争に敗れた途端に独立性を失い、一時は占領軍による支配を余儀なくされました。
 私たち一人ひとりの人生にも、何が起こるかわかりません。
その意味では、いまがもう終わりであり、そして始まりでもあります。
予め決定されたものではなく、自分が直面することに対し、その都度適切に処していくのが人生だと思います。

 『中庸』という古典に、次のような言葉があります。
 「君子は、其の位に素して行い、其の外を願わず」
 君子という言葉にはいろいろな意味がありますが、ここでは立派な人物とご理解いただければよいと思います。
位というのは自分の位置であり、素するというのは拠る、基づくといった意味があります。

 人間にはすべて自分の位置というものがあります。
例えば、自分は親に対しては子という位置にありますが、子供が生まれれば親になります。同じ人間が親になったり子になったり、変化するわけです。
私のように年を取って孫やひ孫に恵まれると、彼らからはお祖父ちゃんと呼ばれるようになります。
 会社においては社長、社員などそれぞれの位置がありますが、社長は永久職ではありませんし、社員も段々昇進して社長にもなります。
 つまり君子は、自分の位置に相応しいあり方を自覚し、それを過たないようしっかり努めている。
それ以外のことに心を煩わされないものだ、とこの言葉は説いているのです。

『らしく生きることの大切さ』
「富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行う」
 富は裕福なことをいい、貴は地位の高いことをいいます。
地位も高く財産も十分にある時にはそれらしくふるまうこと。
しかし、自分は裕福だと思っていても、失職して収入を失ったり、高い地位から下に落ちたりすることもあります。
そうして貧賤になれば、やはりそれらしく行動することが大事です。
「夷狄に素しては夷狄に行う。患難に素しては患難に行う」
 中国には自分のいるところを中華と呼び、周辺国は文化の低い野蛮な国とみなしていました。
夷狄というのはそこからきている言葉ですが、人生では時にそうした不本意な場所に身を置かざるを得ないことがあります。
さらには患難、即ち憂い事、思うに任せないこともたくさん遭遇するものです。

 しかし人は夷狄にあっても患難にあっても、いたずらに嘆くことなく、その状況の中で自分にできることを精いっぱいして為していくことが大事です。
「君子入るとして 自得せざる無きなり」 
自得とは自ら満足するという意味です。
要するに立派な人物は、どこへ行っても不平不満を抱くことなく、自分のいるべきところはここだと腹をくくり、その位置に相応しい生き方をしていくということです。
『論語』に、斉の国の王が孔子に政の心得を聞く場面があります。
その問いに対して孔子は
「君、君たり、臣、臣たり、父、父たり、子、子たり」
と答えました。

 つまり君主は君主らしく役人は役人らしく父親は父親らしく、子供は子供らしく生きていくように教え導いていくことだと導くことだと説きました。
ここれに王は深く納得し、もし君主が君主らしくなく、役人が役人らしくなく、父親が父親らしくなく、子供が子供らしくなければ、たとえ米があったとしても、私は安じて食べることができようか、と応じました。
ここで言う「らしく生きる」というのは、まさしく『中庸』の「素して行う」に通じています。
私たちは誰しも、何らかの位置について社会生活を営んでいます。一人ひとりがそのことをしっかりと自覚し、自分の果たすべき役割に誠心誠意全力を尽くしてゆくことの大切さを、『中庸』の言葉は教えてくれているのです。
夷狄にあっても患難にあっても、いたずらに嘆くことなく、その状況の中で自分にできることを精いっぱい為してゆく
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