愛媛県議会議員 明比昭治 いきいき西条 元気な愛媛!! 「輝くふるさと愛媛づくり」
小松高校甲子園でひと暴れを期待する!(2014/8/1)

小学校5年生女児連れ去り、無事保護されよかった!
 先月岡山県倉敷市で、小学5年生の女の子が学校帰りに行方不明となり、家族や警察・地域の連携による捜索の結果、5日後に無事保護救出されるという事件があった。
極めて私的だが事件のあった地区に、私の孫(小学校3年女児)が住んでおり、早島インターとか、「中庄駅」という地名を聞き一瞬ドキッとした。
 以前から不審者として、車が被害女児の母親も感じており、GPS機能のある携帯電話を持たせるなど対策を講じていたという母親の機転と、そのために公開捜査を警察に進んで申し出た判断力には拍手を送りたい。

 私もすぐに孫に携帯電話と防犯ブザーを持たせるように連絡したが、いつも外出時に携行させているとのことで一安堵した。
 こんな田舎でと思ってはならない、むしろ田舎ほど死角が多くて危険だ。防犯カメラが最近のあらゆる犯罪捜査に有効な機能を果たすが、この設置も田舎では充実していない。
本当はこんな万全の対策に神経を使わなければならない、本来の人間的人格が損なわれたような社会現象こそが残念なことではあるが、やはり自己防衛手段をわきまえるのも必要なことなのだろう。(今いろいろ言われている自衛権問題にも共通する)

 それにしても無事だったのは何よりの救いだ。犯人は自宅を改造し、監禁する準備もしていたかのように報道されているが、己のひきこもりに他者を暴力で拉致・監禁して巻き添えにして、自分の欲求を果たそうとする、自己本位なことは言語道断だ。(北朝鮮の拉致問題も同質のものだ・・最近交渉がかなり進展しているようだが、この問題の早期解決も望みたい。)
以前にも何年も監禁していた事件があったが、いたずらに不審者にしてしまう危険は配慮が必要だが、不審者対策と事件予防は地域住民の心ある目と連携が必要だろう。

加茂川で高校生の連続水死事故は残念

 先月、12日と20日連続して西条農業高校の1年生・2年生の男子が、加茂川(武丈堰上部で通称落ち切りという)で水死する事故があった。殆ど同じ場所で2人とも発見されるまでに何時間も捜索に時間がかかっており、非常に気の毒で、慰めの言葉も無いほどだ。

 わたしたちも子供のころからよく泳ぎに行ったところで、淵となっており流れもゆるくプール状態になっている。また、水深が7M位は深いところである。これまでも何件も水死事故があり、大きな注意を呼びかける看板も出されている。

 原因はよくわからないが、学校のプールと違って水も冷たく流れもあり、慣れないと事故の確率が高くもなる。学校では全面禁止としたようだが、丁度夏休みにはキャンプにも大勢来るところだが、私は全面禁止までは勧めない、必ず監視を怠らないように注意をしてほしいものだ。

「小松高校」甲子園初出場おめでとう!健闘を期待する!

 今年の夏の甲子園をかけての、高校野球愛媛県大会は、シード校が早くに敗退、大物の安楽投手を擁する済美高校も敗退、ノーシードの松山東高校と小松高校が抜き出て決勝戦となり、結果小松高校が優勝を果たし、甲子園への切符を手にした。

 全員野球と今治西高校で度々甲子園への出場経験のある「宇佐美監督」のまとまった力がこの結果を生んだ最大の要因だろう。ぜひ甲子園でのびのび健闘を期待し、合併10周年の西条市のまとまりの1役も担ってほしい。

 
ボックスネルソン・マンデラと日本人の生きざま
  
       
      
月刊『致知」2014.8月号より引用  中條高德 (アサヒビール名誉顧問)
 
『人種差別という東漸の波に立ち向かった我が民族』
 「歴史を忘れた民族は滅びる」という。
 ちょうど100年前のいま頃(1914年6月28日)、オーストリアの皇太子夫妻が凶弾に倒れたのを機に、世界各国が戦争に巻き込まれた。
 第1次世界大戦である。我が国も日英同盟の誼(よしみ)もあり、参戦し勝ち組に回った。
パリで行われた講和会議での日本の要求は、領土でも賠償金でもなく、「人種差別撤廃」であった。
結果は11対5で賛成多数だったにもかかわらず、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領は採択しなかった。

 刻々と世界の覇者になりつつあるアメリカそのものにも「人種差別」という大きな悩みがあった。
黒人オバマが大統領に就いている現在、ましてや自虐史観に侵された日本人には人種差別の残酷さはなかなか理解できないであろう。
 1924年に制定された「排日移民法」に抗議し、アメリカ大使館前で割腹自刃した人の90年法要が頭山満扇の直孫・興助氏により、今年6月7日現場で営まれた。
人種差別は過去の課題ではなく、すぐれて今日的なのである。

 「大航海時代」がやってきた約500年はスペイン・ポルトガルが先進国といわれた。
相手国の産品はすべて自国のものとし、有色の原住民を平然と奴隷とした。
これを歴史は「植民地政策」と呼ぶ。やがて、オランダ、イギリスなど白人の国々が参加して有色人種の国を次々と植民地にしてきた500年間であった。

 1853年のぺリー来航はこの東漸の波の到達でもあった。
幸い明治維新に成功し、近代ニッポンが誕生した。
そして最後の決戦「日露戦争」がやってきた。ここで日本が勝てば、白人の国々の有色人種の国々に対する植民地化の完成であったはずである。世界の予想を裏切り、有色人種のニッポンの堂々勝利となった。

 世界はコペルニクス的転換と讃えている。筆者はその勝利から22年後に生まれた。
日露戦争の奉天会戦勝利の3月10日は「陸軍記念日」。日本海海戦勝利の5月27日は「海軍記念日」と呼んで、その日は軍服を着た元軍人たちが学校を訪ねてきて、我が民族の果たした大きな役割を熱っぽく説いてくれた。
 また、どんな山奥の小学校にも「奉安殿」という神殿のようなものがあり「教育勅語」などが収められていた。どこの学校にも「二宮尊徳」の像があり、いたるところに「忠魂碑」や「八紘一宇」の石碑があった。
「八紘一宇」は地球上で繰り広げられてきた白人による植民地化の東漸の波を払い除ける民族の知恵であり、神話の中から学び取った「気づき」ともいえた。

 植民地化され病める中国の孫文、インドのネルー、チャンドラ・ボース、ビルマのオッタマ、フィリピンのリカルテ、アギナルド、ベトナムのファン・ボイ・チャウなどは日露戦争を見て黄色人種でも勝てるのだと感じ、日本に留学し、独立運動に立ち上がったのだ。
先の大戦で敗れたがゆえに、勝ち組、とりわけアメリカは強力な日本を核としてアジア5族のベクトルを合わせた「八紘一宇」こそ日本が軍国主義に走った根本原因と捉えて、これを神経質に潰し去った。

 我が国の生き様のすべてを正しかったとはゆめ申さぬが、近現代史で満州建設をいたずらに、そして冷たく我が国の帝国主義とか植民地政策と罪深く説く輩がいるが「歴史の公準」に立って、つまりその当時の環境や状況に可能な限り誠実に身を置いてみたのか強く問いたい。
500年に及ぶ国々の東漸の波をかぶり、実際ペリーの来航、その上、北の大国ロシアの南下政策に恐れおののいていた我が国の先人たちが、共に不安の中に生きていたアジアの5族に「五族協和」の場づくりをしようとした栄為は、決して間違った道ではなかったと信ずる。

『最後まで希望という武器をかざし続けたマンデラ』
 昨年暮れ、かつて南アフリカ共和国で黒人初の大統領に選ばれたネルソン・マンデラが95歳で亡くなった。
我が皇太子殿下も、3人のアメリカ大統領経験者も参列するほどの盛儀であった。

 「アパルトヘイト(人種隔離政策)」を黒人への理不尽な差別だとして徹底抗議し、1962年国家反逆罪で終身刑に処された。
それは筆者がアサヒビール時代、「ビールは生」と社長に「涙の提案」をした年と偶然重なり、マンデラへの想いが募る。
獄中生活27年に及ぶも不屈の抵抗は続き、遂にノーベル平和賞を手にした傑物(けつぶつ)なのである。

 マンデラの死は、69年前に敗れ、日本人は民主主義の敵と刷り込まれ、荏苒(じんぜん)と過ごしてきた我われの勇気のなさを問われているようであった。
また、人種差別の撤廃こそが世界平和の源泉なりと活躍したかつての我が民族の姿を浮かび上がらせてくれた。

 マンデラの言葉を紹介しよう。「困難に挫ける人もいれば、困難で成長する人もいる。挑戦を続け、最後の瞬間まで〝希望〟という武器を振りかざす罪人(マンデラのこと)の魂はどんなに鋭い斧でも切り裂くことはできない」

 今年6月、内閣府で調査した主要7か国の若者の意識調査が発表された。
「自分の将来に希望があるか」との設問に、他の6か国の若者は82・4パーセント~91・1パーセントが「ある」と答えているのに、我が国の若者は何と61・6パーセントだった。
このままでは我が国に明日はない。起ち上がれニッポン。
 
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