愛媛県議会議員 明比昭治 いきいき西条 元気な愛媛!! 「輝くふるさと愛媛づくり」
求心力が必要?(2012/6/1)

      
政治生命を掛けた総理に求心力がない。
一体この国は何処へ誰が導くのだろうか?

 東日本大震災並びに福島第1原発の事故収束は1年も有に過ぎながらも、未だに復興や安全・安定の兆しも見えず、『復興庁』を設置しながらもその機能がいかほどに発揮されているのかも見えない。
まず、ガレキの処理が求められているのだが、全国で処理の協力を求めながらも、その安全な処理スキームを、国が責任を持って示さないため(説明しない)に、受け入れるべき地方が2の足を踏んでいるかのような状況だし、安全を確認しながらガレキ処理を受け入れ決断した自治体に対しては、全国の反対運動者から電話やメール・FAXが市役所や市長・議員のところに送られ、北九州市ではトラックの前に座り込むなど実力行動も起こり、混乱をきたしている。

 原発についても5月6日から国内の全ての原発が停止し、原発による発電依存量が高くなっている国内のエネルギー事情から、再稼動もおのずと求められる背景もあり、次の稼動条件の一つでもあるストレステストを終えた順に、どうなるのか原発により地域経済が大きく依存してきた本当の足元の自治体では、住民自体がストレスの限界に達するような状況にもあるようだ。しかし、周辺ひいては日本全体に安全神話が崩れた今、放射能に対する不安はぬぐえず再稼動が容認される状況にもない。

 放射能に対する恐怖感は、過剰なまでに風評被害まで引き起こしているともいえる状況で、政府のしっかりとした知見が示されないために、疑心暗鬼の国民を造ってしまっているとも言えよう。「原子力規制庁」は一体いつ発足するのか?
このような状態だから、国民一丸となってこの国難を乗り切ろう!と今や、声を上げることすらためらわれる状況だ。

 こんな大事な状況をほったらかして、「税地社会保障の一体改革と消費税増税に政治生命を掛ける」などと、国民の目先を何か仕事をしているかのようなポーズを政府は取っているのだが、確かにそれも大事だろうが、前に片付けなければならない課題を、かじってはほったらかしの状況で、全く国の行く先を暗黒へと導いているとしか言えない。野党の姿勢も甘いからかもしれない。

 責任政党たる政府と与党民主党が、意思統一も出来ずに内紛をさらしたままで、中途半端な政策を示して、最初から何をやる気かもしれない状況をさらすのだから国民は一体何を求めて、まとまれば良いのか、拠るべきところがない状況だ。

 誰がこの国を束ねて方向づけるのだろう?確かに今こそ白馬の騎士が現れることが求められよう。橋下大阪市長に期待感が集まっているようだが、危険だと私は思う。
大局観のない民主党に期待し、今国民は大きな犠牲を背負わされている。この上に一転突破でぶち壊しの野次馬根性で、何時辞めてもいい無責任感覚の「橋下丸」に乗り込んだら、この国はもう浮かび上がることも出来ないことになりはしないかと、私は危惧を感じる。

 ともかくもう国会も終焉が近い、いろいろな舟が漕ぎ出されるのだろうが、乗り誤らない選択を国民は迫られる。

 
 
ボックス 義を以って利と為す

   ― 正しい行為を積み重ねて得られる利こそが本当の利です。
      義こそが利の本となるのです。 ―
       
      
月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監 伊與田 覺  
 
『礼を尽して孔明を迎え入れた劉備』

 上に立つものの重要な仕事の一つに、優れた人物を抜擢してその能力を十分に発揮させる事があります。
『三国志』に、漢王室復興の志を抱いた劉備が、隠棲していた孔明を国師として迎え入れようとする場面がある。
最初は固辞していた孔明は、三度にわたり若い自分の元を訪ね礼を尽す劉備の姿勢に打たれ、その支えとなることを決意しました。
世に有名な「三顧の礼」の故事です。

 中国古典『大学』には、
 「賢を見て拳ぐる能わず、拳げて先んずる能わざるは命なり」
とあります。「命」はここでは‘怠り’と解釈します。
立派な人物を挙げ用い、その能力を存分に発揮させる事ができないのは、上に立つものの怠りであるという意味です。

 さらに、
「不善を見て退くる能わず、退けて遠ざくる能わざるは過ちなり」
「人の悪む所を好み、人の好む所を悪む。是を人の性にもとると謂う。災必ず夫の身に逮ぶ」
と続き、人が不善を働くのを見て
退けることができなかったり、退けても遠ざけて関係を断ち切る事が出来ないのは、上に立つものの過失である。また、自分の気のままに、人の憎むところを好み、人の好むところを憎むというのは、人の本性に逆らう自己中心的な行為であり、必ず、災いが降りかかるとも説かれています。

 
『君子と小人の判別基準』

では「大学」はどのような人物を用いるべきだと説いているのでしょうか。
「国家に長として財用務むる者は、必ず小人に自る。彼之を善くすと為して、小人をして国家を為め使むれば、災害ならび至る。善者有りと雖も、亦之を如何とするも無し」
 てきぱきと事務的処理をこなしていける能力があるからといって、そういう小人に大臣などの枢要な地位を与えてしまっては、国家はうまく治まっていきません。
立派な人物が下にいても、これをどうすることもできないでしょう。

 ここでいう「小人」は悪い意味ではなく、「君子」に対するものをいいます。君子と小人を判別する基準は、他人との比較ではなく、その人の中にあります。
 人間には徳と才の両方が大切ですが、徳よりも才に優れた人を君子といいます。
また、何事も自分中心で行動する人を小人、自分よりも他人を大切にする人を君子と見ることも出来ます。
「此を国を利を以て利と為さず、義を以て利と為すと謂うなり」
目先の利を求め、役に立つからといって小人を用いると、大局的には本当の利を得ることは出来ません。
正しい行為を積み重ねて得られる利こそが本当の利です。
義こそが利の本となるのです。

 戦後の日本は経済至上主義に傾いたため、戦前はそれほど地位の高くなかった大蔵省(現・財務省)が重要になり、大蔵大臣を務めることが総理の前提のような時期もありました。
そのため、本でもあるべき徳よりも財が重視され、国政にも反映されてきたわけです。
 人の上に立つ者、とりわけ国政を担う者はやはり徳を備えた君子であるべきだと私は思います。
『大学』の教えの一端なりとも理解する人物が上に立てば、いま国の抱える問題についても、もっと根本的な議論ができるようになるのではないかと期待しております。


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