愛媛県議会議員 明比昭治 いきいき西条 元気な愛媛!! 「輝くふるさと愛媛づくり」
神に感謝の誠を捧げよう。(2011/10/1)

      
各地で秋祭り、今年は不作の年だったが、日本の平安を祈ろう。

 3月11日の東日本大地震で大津波を引き起こし、1万5千人余の死者を出し、未だに行方不明の方が5千人にも余る状況で本当に痛ましく悔しい。
加えて起きた東京電力福島第1原発の事故は未だ終息のめども立たず、ふるさとを離れざるを得ない被災と避難者が2万人を越える状況で、原発事故の悲惨さを思い知らされ、この国のエネルギー問題や経済活動の問題まで深刻な影を落としている。

 また、このような大変な事態にあるとき、国政の不毛な状況は国際からも見放されつつある。
一刻も早くみんなで事態の収束と復旧・復興に取り組まなければならない。
だれかれと責任の擦り合いをしていてもなんら解決しないし、事態をいっそう困難にするばかりである。

 先の台風でも平成16年の災害以来の大雨で、被害を受けた。
この際は各地の祭礼でも祈りを捧げ、神のご加護もお願いしよう。
神にも仏にも自然にも、人間の欲で無礼がありすぎたのだろう。
お断わりもしなければならない。懺悔と自戒が必要だ。

みんなで力を合わせ「がんばろう日本」、『なでしこジャパン』が元気付ける活躍もされているが、「チーム日本」これまでも困難を乗り越えてきた。
今その日本人の魂を発揮し、立ち上がる時だ。
いつまでもぐずぐず、愚だ愚だいわず頑張ろう。

 
 
ボックス 永平寺への参禅の旅


        民族の美質が確と違っていた    

      
月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=アサヒビール名誉顧問 中條高徳 
 
『深い縁に導かれて』

 夏の一日、曹洞宗の大本山永平寺を訪れた。
 老身の保養を考えてか、娘夫婦が北陸路の山中温泉の名湯に招いてくれた。
北陸に赴くとなると、年を重ね死線を越えてきただけに永平寺がしきりと頭に浮かび、これを機会にお参りすることにしたのである。

 この永平寺参りは、老生にとって今生この世の最後の参禅になるだろうと心の中で密かに言い聞かせていた。
 一族郎党を率いて十人の旅となった。
 好天の永平寺近辺では、亭々と聳える杉木立の間の青葉、若葉を通して、夏の日が眩しく輝いていた。まさに心が洗われるような情景であった。
永平寺は約七百七十年前に道元によって開かれた「只管打坐」の座禅修行の道場である。道元は釈迦の教えを究めるべく中国に渡った。当時の航海は死を覚悟の旅であった。そこで中国の高僧・如浄との運命的な出会いがあった。如浄は道元到来を予言し、身に付けたすべてを道元に伝えたといわれる。

 その永平寺は数百年の歴史を刻んで、緑濃い山々に三方を囲まれ千古不易のお城の如く鎮まっていた。
  道元はたった一度、時の執権・北条時頼の招請で半年ほど鎌倉で過ごした。永平寺に戻った時、道元曰く、
「今日山(永平寺)に帰る 山氣喜ぶ 山を愛するの愛 都(鎌倉)よりも甚だし」
 七百七十年の時空を経ても道元のこの寺への愛情が伝わってくる。吾、いまその永平寺の門前に立つ。

 正面に立った左右の門柱に「杓底一残水」「汲流千億人」と刻まれてある。道元は常にを水の大切さを「水を早く失うなかれ」と説く。「水を汲んだ杓の底に残る一滴も粗末にするなかれ。やがてその水が集まり、数多の人がその恩恵を享ける」の意。

 人間は水なくしては生きられない。先の戦争で散っていった英霊たちが命果つる時、命懸けで求めたものも水であった。これはいまを生きる全人類に対する尊い箴言である。
 礼儀作法や言葉の乱れの甚だしいこの娑婆から見ると、行き交う当山の雲水たちの挙措動作は実に折り目正しく、礼儀正しく、爽やかで、そして清々しかった。

 老生の育った家でも、戦前は箱膳で家族揃って食事をし、食事中に話をしたら不謹慎とたしなめられたものだ。 どこか雰囲気が通ずるようなところがあった。

 
『三度の死』

  この度の参禅にあたり南澤師からお坊さんたちへの説話を要請されていた。九十分の時間はそこで頼まれたが、説教の専門家に説教するのだから老人といえどもいささかひるむ。
老生の八十四年の人生における「三度の死」を語ることにした。

 一回目の死は六十六年前の終戦のころである。軍の指揮官たちは次々と自決し、任官していた若い先輩たちも数多く自決した。
「貴様たち若い者は死を急ぐな。日本の再建のために尽せ」と口を揃えて叫び、そして命を断っていった。「死んだつもりで生きている。」と覚悟した日であった。

 二回目の死は企業の死の宣言であった。終戦時、占領軍により分割命令を受けたアサヒビールはどんどん疲弊し、昭和五十六年頃にはシェアも十パーセントを切り、天下のハーバード大学から「企業の死」を宣告された。一回目の死を経験していたからこそ、二回目の企業の死における再生作戦に役立ち、アサヒビールは天下を取り蘇ることができた。

 第三の死の体験がいよいよ本人にやってきた。昨秋の心筋梗塞の緊急手術である。
 道元の教えがある。「死を厭うなかれ。生を願うことなかれ」「生」と「死」を選別するのは人間の傲慢というべきで、日々の「生」を大事にせよとの道元の教えを我が身の体験に重ねながら説いた。

 同郷のバイオリン教室で有名な鈴木鎮一氏は九十五歳の時、「死は向こう側で決めることで、死ぬのを自分で心配するのは儚きことと悟った」という。これを受けて私は「それが分かった翌日からパッと身体が変わって、それから三十五年来、病で寝たことがない。すべては命がやっていること。命が私の主治医」と熱っぽくお伝えしてその日の任を果たした。
 永平寺には日本民族の美質が確と息づいていた。

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